Lethe/ Catastrophe Point
#6 (SR-001, JAPAN) 2005
ここにあらゆる感情を越えた純粋な「時空の痛み」と、我々のなまぐさい善悪などとは一切無縁な「宇宙の慈悲」が等質にせめぎあいながら、結晶化しようともがいている。
だが、それは決して完全な結晶化には至れぬまま、ただ生成・崩壊の狭間に止め置かれ続けるのみだ。
人は日常において、「宇宙」について考え、実感を伴ってその一部である自分を認知する事などほとんど無いだろう。これが、自己の内部宇宙(勿論それは実在する"宇宙"と本来的に繋がっている)となると、尚のことだ。しかし、我々も含め、万物は常に宇宙の一部であり、一瞬たりともそれと無関係では在り得ない。故に、万物は先天的にその内部に宇宙を抱えている。なぜなら我々は、意識するしないに関わらず、例外なく宇宙の一部なのだから。すなわち宇宙もまた、我々個々の一部と言えるのだ。
そこでは慈悲の働きの下、生成と破壊、動と静、凝固と拡散、等々、あるいはその狭間に留め置かれる様々な事象が木霊しあっている・・・。今日のように宇宙の実相について調査・研究が進む遥か以前、人々は既に、その本質に気付いていたに違いない。故人らは、それを精霊と呼び、神と呼び、妖怪と呼び、悪魔と呼んだのかもしれない。そして、彼らはそれらのものたちとの対話・和解の為、様々な方法を試みたに違いない。それは生きる為、進歩する為、必要欠くべからざる試みだったのである。そして、その重要性は、今も昔も変わらない。ただ、現代の人々の多くが、その方法を積極的に放棄しただけである。「宇宙の慈悲」の酷烈さに、進んで従うという謙虚さ、誠実さを失ったのだ。結果、人々は宇宙と対話する術を忘却する事となった。
桑山氏の仕事に触れる度、表現者としてのストイックかつ誠実な姿勢にある種の感動を覚える。
氏の人生観は、作品に如実に表れている。黙々と演奏し、日々の生活を送り、思索する桑山氏の姿には、いにしえびとの誠実な姿が重なる。最後には「桑山清晴」という自我も消去し、肯定的に個を乗り越えたいと語る彼は、間違いなく、宇宙と対話する術を知る表現者の一人だ。こうした術を体得するには、それ相応の経験が必要なのは言うまでもない事だが、何よりも、本来持って生まれた資質に依る処が大きいだろう。彼の様なタイプの表現者は、好むと好まざるとにかかわらず、言わば宇宙の側から、あらかじめ選ばれてしまっているのである。この「Lethe/
Catastrophe Point #6」において、桑山氏は宇宙との対話の為に、石や木といった極めて土臭く、原初的なマテリアルを使用している。
古今東西の文化圏で、呪物としても広く用いられて来たこれら物質との真摯な戯れ=発声による宇宙との対話は、極めて濃密で純度が高く、エロティックでさえある。
だが、表面上は、霧たちこめる深山の趣で、聴く者に決してエモーショナルな印象を与えはしない。
しかし、この、はかなくも凍てつくような静謐さの背後には、原始のマグマの如き白熱がうねりをおびて横たわっているのが判るはずだ。美しくも荒々しい音の響きの狭間から、形以前のものたち、かつて形のあったものたち、形に憧れるものたちの囁く声が、確かに聴こえて来るようだ。
今作を含む桑山氏の仕事全般に一貫して感じられる、一見相反する禁欲への意志、そしてほとんど無限の広がりを有する多様性の許容(への可能性)の共存という特性からは、そのまま"宇宙"の神秘的な有り様を連想せずにはおれない。
尚、今作を包むジャケットの絵画、及び題字を制作された故・水谷勇夫氏(1922 - 2005)は、その晩年を通して、桑山氏と親密な交流があった。石庭をテーマとした個展を最期に、惜しくも急逝した希有な美術家である氏の生涯に亘る仕事と、氏の歳若き友人である桑山氏の仕事とは驚く程共通点が多い。
その制作に対するストイックさ、誠実さ、生臭い次元を超えた処で生命や歴史を捉えなおす姿勢、そして何よりも宇宙と対話するかのような制作態度の在り方や、作品自体が必然的に内包するプリミティヴなエネルギーの強度・・・。
両氏は親交を深め、互いの仕事を知るにつれ、こうした共通点の多さに気付いていったという。
水谷氏は、存命中最期となった個展の準備中、桑山氏にこんな事を言ったそうだ。
「完成というものは、無くていいのかも知れない。」
これは恐らく、今作の本質に迫る言葉であり、ふと地上に紛れ込んだ宇宙の微かなつぶやきである。
(笠原亘 - 2005.09.26)